2016年は日本映画界にとって大きな転機となった。『君の名は。』を始めとする東宝映画の絶好調ぶりもそうだが、何よりいわゆるインディペンデント系映画である『この世界の片隅に』が、SNSを中心としたバズ・上映館拡大によって17.3億円もの興行収入(2017年2月現在)を上げたことが最大のトピックであろう。

時は遡って1990年代、日本映画界は苦境を迎えていた。人々の映画離れが進み、1996年には年間入場者数がのべ1億1985万人と、歴代最低の数値を叩き出した(2016年はのべ1億8019万人)。当時は現在よりさらに「メジャー」「マイナー」の区分けがはっきりとしており、「日本映画全体数の、たかだが10%程度のメジャー作品が、日本映画の”顔”として大手を振っている」(※)状況であった。さらに、「あらかじめできている劇場網に恒常的に作品を配給する」ブロックブッキングがメジャー映画至上主義を補強し、「テレビでCMをたくさん流されるメジャー映画」が日本映画において唯一の勝ち筋、という事態となっていた。そんな中、松竹という大手配給会社に居ながらにしてそうした状況を変えようとしたプロデューサーがいた。奥山和由である。

奥山は、専務に就任すると同時に「シネマ・ジャパネスク」(後述)の実施や、ブロックブッキング解消運動など、大改革を断行。その反動で、会社を追われることとなるが、結果的にブロックブッキングは解消され、日本映画は再び上を向き始めた。また、奥山はプロデューサーとしての力量も非常に高かった。カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した『うなぎ』、台湾の巨匠・侯孝賢の『フラワーズ・オブ・シャンハイ』のプロデュースの他、何と言ってもお笑い芸人・ビートたけしを映画監督としてデビューさせ、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得する大監督にしたことが彼の最大の功績といえよう。

そもそも「映画のプロデューサー」とはなんなのか。日本映画の問題点はどこにあるのか。そして、「監督・北野武」はどうして生まれたのか。奥山和由にインタビューした。

※大高宏雄『日本映画逆転のシナリオ』(WAVE出版 2000)より

【映画プロデューサーという職業について】

「映画プロデューサー」とはどういった職業ですか?

監督が母親だとしたら、プロデューサーというのは父親みたいなものだと思っています。社会と自分の子供を結びつけるのがプロデューサーです。監督は生まれてきた映画に関して、「あばたもえくぼ」と言えるわけですよ。父親であるところのプロデューサーは、「あばたはあばた」というのを認識した上で可愛いんだ、と言わなければならない。だから、お腹の中で育てている間に、生まれてきたらどういう館数で公開して、というような「どういう風な環境で育ててあげるか」ということを考えなくてはならない。だから、フリーでプロデューサーをやっていると諸々の問題を乗り越えるために、スネはボロボロになる(笑)。そのリスクを回避できるのがハウスプロデューサー(企業で働くプロデューサー)。ハウスプロデューサーは一つの理想だとは思うけど、ある種の緊張感、ダイナミックな緊張感というものがなくなって、本来のプロデューサーというものにはなっていかない。適当に中庸を取っていきがちなんだよね。

今は川村元気さん(※1)をはじめとして、東宝が一強ですね。彼はかなり作家性が強いプロデューサーですが、そうしたプロデューサーというのは以前からいらっしゃったんですか?

プロデューサーのように、「育てる」プロフェッショナルというのは、価値を創造していくことができなければ意味がない。価値を創造するというのは一人の人間(監督)が価値のあるものを生み出すということを助けるという作業になるわけですよね。そうすると、「こういう風に組み立てていけばリクープ(資金回収)できるだけキャッシュフローの中に身を置くことができる」と判断する才能が問われるんです。「作りたいものを作るんだ」という監督に対して、「いや、こういう風に育てたほうが良い、そうしたほうが観客も多くなる」ということを誘導してくれるのがプロデューサー。そういう意味では川村元気くんのように自分の作家性で監督をディレクションする能力に長けているのがプロデューサーとしてあるべき姿だと思う。
だけど、従来のハウスプロデューサーは、角川春樹さん(※2)のような外れ値を除けば、残念ながら川村くんのようではないですね。ハウスプロデューサーは当たってもコケても自分自身のインカムが変わらないから、常に仕事がある状況をキープしたければ、「自分がいなくても仕事が回る」ということをばれないようにすることに執心するという人も多いわけですよ。

その中で奥山さんは特異点だったのではないでしょうか。

過去の撮影所システムの中で生まれた監督っていうのは、プロデュース能力も兼ね備えている人間が割と有利だということもあって、自分の作品を自分がプロデュースしていた。大島渚にしても篠田正浩(※3)にしても何をすれば自分の映画が当たるか、というのをわかっていた。あの時代の、プロデューサーを兼ねた監督が群雄割拠している中で、僕みたいなのは異物だったと思います。だから僕は松竹の時代から日活の村川透さん、神代辰巳さん、藤田敏八さん、東映の五社英雄さん、深作欣二さん(※4)と仕事をしていた。彼らはセルフプロデュースが出来たので、プラスアルファという段階を望んでいる人ばかりだったんですよ。そういう事情もあって、僕は松竹にいたけど彼らは割と組んでくれた。「東映の深作欣二」とは違うものもできたと思う。まあ、トラブルも多かったけど(笑)。

奥山さんのプロデュースしたい映画とはどのようなものでしょうか。

僕は「面白いから当たりました」という映画には基本的に興味がないんですよ。当時、『南極物語』(※5)を中心として、当てようと思ったらマスメディアのテレビスポットをドーンと打つのが主流だった。そうなったら、何かしらの「摩擦」を起こすことが、公序良俗に反さないで認知を喚起するのが基本ですよね。でもそういう映画は映画会社の人間として作るのは勝ち目が薄い。勝ち目が薄いと同時に、ものづくりの人間として自意識があったから、存在感がある映画を作りたいと思っていた。人間の感覚を刺激していくものを作りたいという嗜好性は強かった。多分、それを監督が面白がってくれたのもあって、川村元気とは違う形だったんだろうと思うけど、自分なりに価値を創造するため非常に監督領域には踏み込みました。一回監督が好きなようにやったものを、僕が編集したりもした。もちろん打合せはしたけども。
僕の時は『ハチ公物語』(※6)というものに到達するまでに、理不尽なこともかなり長い間やったけど、川村元気くんの場合は若いうちに『電車男』で実績を手にした。「川村元気がいうならば」という枕詞を獲得していくのは絶対的な能力なんです。彼はそれを良い方向に使っていると思っていますよ。けれど、ここからどうするかがより大事。『君の名は。』の次に岩井俊二の『打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか?』をアニメ化する、みたいなことを続けていかなくてはいけない。それが、彼自身の義務だろうし、そうやって才能を開発していくのは彼の一番の喜びなのではないでしょうか。プロデュースというものを自分の中でエンターテイメント化して快楽を味わえる稀有な例だと思う。

奥山さんは「投資ファンド」や「シネマ・ジャパネスク」(※7)など資金調達や配給スキームの面において革新的なことをなさいました。

僕はもともと監督がやりたかった。『津軽じょんがら節』を観て「すげえな」と思って、親父が松竹の人間だと隠して、『津軽じょんがら節』の監督、斎藤耕一さん(※8)の自宅を訪ねたんです。そしたら、斎藤さんが面白がって現場につけてくれて、フォースの助監督をやった。でも、そうして最初に携わったミュージカル映画が、音楽映画だというのに、音楽がえらくちゃっちいから、「これで大丈夫なんですか?」と聞いたら松竹のプロデューサーが来て、「音楽予算というのは、『全体の何%以上使っちゃダメ』というのが決まっている」と言ってきた。だけど、「この映画は音楽に力を入れているからこそ、会社を説得したい」という意思を会社に誰が伝えるか、と言ったらプロデューサーが伝えるしかない。監督がそんなことを言ったら次の作品が来なくなってしまうし。「プロデューサーをやらなければ一番肝心な総体の組み立てというのができなくなるんだ」ということがわかってプロデューサーを志した。それで松竹に入って、最初は経理をやらされ、数年経っていざ制作現場に着いてみても、今度は役員会議という壁があることがわかった。
組織を説得できるのは、要は金なんです。僕の場合は、プロデューサーとして一発目で『海燕ジョーの奇跡』をやるときに、三船プロまで行って三船敏郎さんに出資していただいた。その過程で、「外の人がお金を出したら通る」というのがわかった。プロデューサーという立ち位置を、クリエイティブな部分も含め拡大するために、業界外資を導入して、製作委員会方式を作った。「委員会で決まりました」ということができるから映画会社に振り回されず、プロデューサーのクリエイティブの権限を広めることができる。現場に対しても会社に対しても自主独立的なプロデュースができるという可能性は、異業種の導入しかなかったんです。
『ハチ公物語』で三井物産と東急電鉄というのを入れ込もうとしたのもそういう理由なんです。松竹という映画会社の監督至上主義の中で、「監督がこう決めたんだからこういう形でしかできない」となると、プロデューサーは対抗できないんですよ。だけど、「映画が全くわからないスポンサーがこう言っているんだからこうしてあげなきゃいけないんですよ」というと結構話が通りやすい。だから、「東急さんが、ハチ公はこうだと言っていたから」と卑怯な手を使いながらやってました(笑) 。

ハウスプロデューサーとしてお仕事をしていらっしゃる時に特に感じたことはありますか。

「日本は国際競争力が全然ないな」と思いました。韓国の映画人とか、中国の映画人の方が、パワーがあるんです。
彼らは映画に対してドメスティックな感覚がなくて、インターナショナル性を強く求めるわけですね。僕が一番深い付き合いをしたのが侯孝賢(※9)だったこともあって、彼とはよく話したんだけど、侯孝賢がなぜヴェネツィアで賞を取れたかというと、「人類共通の感覚」みたいなものに対しての執着力がすごくあるからなんです。トニー・レオン(※10)の動き方から、リー・ピンピン(※11)のカメラから、「どうしてそういう動線・カット割りを選んだ?」みたいな話をするとすごく腑に落ちるんですよね。彼は馴れ合いが全然ない。俳優がすごく良い芝居をしても、次はまたオーディションからやらせる。それを見て、「日本は負けるな、競争力を失うな」と思った。
日本では、尖った映画は排除していく。そうすると、リスクを下げながら自由闊達な表現をどう保持していくか、というテーマがもう一つの問題として浮かび上がっている。ファンドを作ったり、いろいろやっていく中で、「ブロックブッキング」(※7参照)が問題であることがわかってきた。当時の映画界の、一番の自死作用は、ブロックブッキングと新年の大パーティー。役員会ごとに「赤字をどうするんだ」と話している時に新年会に6000万円とか使う。でも、新年会をやめて「いよいよあそこはやばいぞ、新年会をする金もなくなったぞ」となったら資金が集まらなくなるので、そうせざるをえなかった。だから、僕が役員になった時に大騒ぎして辞めてもらった(笑)。新年会のために、作りもしない新作のラインナップを発表し、発表しちゃったから作るという悪循環を断たなければいけないと思った。ブロックブッキングも僕がいなくなってからすぐに無くなりました。

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(※1)川村元気(かわむら・げんき)は東宝のプロデューサー。26歳のときに社内公募で『電車男』をプロデュース。興行収入32億円の大ヒットとなり一躍時の人に。その後も『告白』『悪人』『モテキ』を経て、2016年『君の名は。』をプロデュースしたことにより評価はいよいよ揺るぎないものとなった。
(※2)角川春樹(かどかわ・はるき)は元角川書店社長。映画と書籍を同時に売り出す、「メディアミックス」の仕掛け人であり、1970-80年代いわゆる「角川映画」で日本映画界を牽引した。
(※3)大島渚(おおしま・なぎさ)、篠田正浩(しのだ・まさひろ)は日本の映画監督。代表作はそれぞれ、『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』・『心中天網島』『写楽』。
(※4) 村川透(むらかわ・とおる)、神代辰巳(くましろ・たつみ)、藤田敏八(ふじた・としや)は日活の映画監督。代表作は、それぞれ『野獣死すべし』、『一条さゆり 濡れた欲情』、『海燕ジョーの奇跡』。
五社英雄(ごしゃ・ひでお)、深作欣二(ふかさく・きんじ)は東映の映画監督。代表作は、それぞれ『鬼龍院花子の生涯』、『仁義なき戦い』。
(※5)1983年公開の日本映画。南極観測隊とそり犬の悲哀を描いた大作映画。フジサンケイグループが総力を挙げて宣伝活動を行い、当時の興行成績歴代1位となる、興行収入110億円の大ヒットとなった。
(※6)忠犬ハチ公の生涯を描いた、プロデューサー:奥山和由の代表作。配給収入20億円のヒットとなった。
(※7)「シネマ・ジャパネスク」は奥山和由が行った配給スキーム。それまで、「あらかじめできている劇場網に恒常的に作品を配給する」というブロックブッキングという仕組みが主流出会ったが、「シネマ・ジャパネスク」では、作品規模に合わせてフレキシブルに公開館数を調整する、という試みを行った。
(※8)斎藤耕一(さいとう・こういち)は日本の映画監督。その映像美から「日本のクロード・ルルーシュ」とも呼ばれている。
(※9)侯孝賢(ホウ・シャオシェン)は            台湾の映画監督。1980年代の「台湾ニューシネマ」を支えた。代表作『悲情城市』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞。
(※10)トニー・レオンは香港の俳優。国際的な評価も高いアジアン・スターで、『花様年華』でカンヌ国際映画祭男優賞受賞。
(※11)リー・ピンビンは台湾の撮影監督。侯孝賢や王家衛などの映画を支えるカメラマンとして知られている。

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