12月3日、イタリアの映画監督ベルナルド・ベルトルッチが彼の長編映画『ラスト・タンゴ・イン・パリ』におけるアナルセックスシーンは「(セックスシーンを行った女優である)マリア・シュナイダーの同意なく行ったものである」と明らかにした動画(*1)がSNSを中心に拡散、ハリウッドのセレブを中心に大きな非難を受けました(*2)。騒動を受け、ベルトルッチは「(アナルに)バターを塗るのを知らせなかっただけだ」と言う反論記事(*3)を出しました。2007年のデイリーメールによるインタビュー(*4)で、マリア・シュナイダー自身が挿入はなく(狭義の意味のレイプではなかった)、セックスシーンの相手役であったマーロン・ブランドとも終生友人であり続けたことを認めていて、現在Twitterを中心に出回っている「レイプシーンが同意なく撮られた」という語り口は厳密に言えば間違っています。

しかし件のシーンの撮影において、プロセスに大きな問題があり、「私は尊厳を踏みにじられたように感じたし、正直に言って、マーロンとベルトルッチから軽くレイプされたように感じたわ。シーンの後に、マーロンは私に謝りもしなかったわ。」という言葉が示すように、マリア・シュナイダーが人生において決定的かつ不可逆のダメージを受けたことは間違いありません。

このスキャンダルに関する所感を以下に記します。

【ベルナルド・ベルトルッチとは】
1941年イタリアに生まれる。1962年に『殺し』で映画監督デビュー。『革命前夜』『暗殺の森』が国際的な評価を受け、続く『ラスト・タンゴ・イン・パリ』は論争を巻き起こすも芸術的価値が高く評価された。
1987年には『ラストエンペラー』でアカデミー賞作品賞・監督賞を受賞。世界的な名声を得る。以後、カンヌ国際映画祭で名誉パルム・ドールを受賞するなど存命の監督の中では非常に高い評価を受けている。

 

【ラスト・タンゴ・イン・パリとは】
ベルトルッチの長編6作目。マーロン・ブランドとマリア・シュナイダーのアナルセックスシーンを含む激しいセックスシーンが論争を巻き起こし、本国イタリアでは上映禁止・ブランドとシュナイダーは裁判所への出頭を余儀なくされたが、「検閲に対する自由の獲得」の象徴として熱狂的に支持する人々も多い。

 

【はじめに】
今回の件は、(特に前世紀までの)映画が抱える映画製作現場のマッチョイズムが最悪な形で発露したものだと考えます。挿入がなかったとはいえ、19歳の少女がセックスシーンにおいて脚本にない演出をその場で追加された時の恐怖は筆舌に尽くしがたいものがあるでしょう。
ブランド・ベルトルッチ両名は当然厳しく指弾されるべきですし、ベルトルッチ以下、当時のスタッフは真摯に真相を語らねばならないでしょう。

しかし、今回の件はベルトルッチの人格に起因するもので、ベルトルッチを映画界から抹殺すれば済む問題ではなく、映画製作に内在するヒビのようなもので、いつ何時でも起こりうるものではないでしょうか。

『エクソシスト』の監督、ウィリアム・フリードキンは撮影に際して女優を思いっきりピアノ線で引っ張り、苦痛にゆがむ顔を引き出したり、(*5)『ダイ・ハード』の監督ジョン・マクティアナンはアラン・リックマンと「(7.62mの高さから)3つ数えたら落とす」という合意をしながら、実際には1カウント目で彼を落としました(*6)。このように、映画史においては倫理観を欠いた製作プロセスを経た作品がいくつも見られます。女優が「軽くレイプされたように感じた」と思うほどの明らかな人権蹂躙(肉体的苦痛やいわゆる「ドッキリ」とは全くの別物)がカメラに収められ、誰でも観られる状況になっている点、多くの映画人が糾弾している点、以上の2点において、今回のベルトルッチの問題は、そうした映画と倫理観をめぐる諸問題を総括するものだと考えられます。

映画製作現場の問題、アート無罪の問題、果ては表層批評の限界など、クリティカルな議題をいくつも抱える事件ですが、僕はここで「芸術製作に際して、倫理的な境界線をどう定めるべきか」と、「後から判明したプロセス上の逸脱は作品の評価の否定にまで遡及するのか」という二つの論点を提示します。

【芸術製作に際して、倫理的な境界線をどう定めるべきか。】

ベルトルッチへの批判の多さは、芸術製作において倫理的な問題が以前よりクローズアップされるようになった現代の状況を反映していると言えましょう。だとしたら、そのラインはどこにあるのでしょうか?

今回のケースのような、役者に予め何が起こるかを知らせず表情を引き出す即興演出は、逸脱を最も生みやすい演出の一つです。『エクソシスト』においては監督の理想を追求するために肉体的な苦痛や精神的な苦痛が与えられました。また、イランの巨匠アッバス・キアロスタミ監督は子供の泣き顔を撮るために子供が大切にしていた写真を目の前で破きました(*7)。ベルトルッチのケースは、一人の女性の人権を不可逆的に侵食しているという点で決して許されるべきでないことは自明ですが、『エクソシスト』やキアロスタミの例も厳しく指弾されるべき「逸脱」として扱われるべきなのでしょうか?

僕はこの騒動を通じ、芸術において倫理観が不可分となった時代である以上、映画製作プロセスの客観的な検証、例えば国際的な映画製作連盟を立ち上げ、倫理的なガイドラインを策定するといった処置が取られるべきでないかと考えました。もちろん、細かい演出まで全てセーフorアウトを判断することは不可能なので、指針として。映画という芸術はある面において逸脱した倫理観がドライヴしてきたことも確かである以上、だからこそ、今一度全世界的な映画と倫理規範の関係の見直しが要されているのではないでしょうか。

 

【後から判明したプロセス上の逸脱は作品の評価の否定にまで遡及するのか】

『ラスト・タンゴ・イン・パリ』はその芸術性が高く認められており、検閲に対する映画の勝利として称揚されてきました。しかし、今回のスキャンダルを受け、ツイッターでは「好きだったけど失望した、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』は映画史から排除されるべき」「ベルトルッチの作品は二度と観ない」と仰る方が続出しています。確かに、一人の女性の尊厳を少しずつ刈り取ることを幇助してしまうという点において最早この作品は「作品無罪」ですらいられないような思いもあります。しかしながら、芸術性の否定・映画史からの排除にまで至るべきなのでしょうか。

個人的には、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の作品的・芸術的価値は認めたうえで、上映の場を大学の講義などに限るべきだと思います。女優が不可逆な傷を受けているという点で、本質的にはスナッフ・フィルム(殺人を記録した映像)と同根です。尊厳に対する決定的な蹂躙の瞬間を誰でもアクセス出来る状況に置くべきではないでしょう。

【結びに】

この問題は日本においても対岸の火事ではいられないと思います。深田晃司監督が仰るように、製作現場には未だ不合理がまかり通る(*8)という話はよく聞きます。特に、財政的な意味でも芸術の追求という意味でも、アート映画の撮影現場においてはそうした不合理が通りやすい土壌が形成されているのではないでしょうか。勿論推測にすぎませんが。。

第二のマリア・シュナイダーが生まれないよう、またベルトルッチ監督が改めて彼女に謝罪することを切に祈ります。

*1 https://www.youtube.com/watch?v=021jNOEVytQ

*2 http://variety.com/2016/film/news/last-tango-in-paris-rape-scene-consensual-bernardo-bertolucci-1201933117/

*3  http://variety.com/2016/film/global/bernardo-bertolucci-responds-to-last-tango-in-paris-backlash-1201933605/

*4  http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-469646/I-felt-raped-Brando.html

*5  http://www.cinematoday.jp/page/N0033829

*6 http://sploid.gizmodo.com/alan-rickman-fell-for-real-in-die-hard-plus-six-other-f-1666327722

*7 西川美和「『永い言い訳』にまつわるXについて」より。

*8 http://eigageijutsu.com/article/141898866.html

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